明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、「教祖が、よくお話の中に、
『松は枯れても、案じなし。』
と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが。」と言ったので、増井りんは、「お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家は、もうあかん。潰れてしまうで。と、人々が申します。」と、人の噂を、そのままに話した。そこで、仲田が、早速このことを、教祖にお伺いすると、教祖は、
「さあさあ分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけれども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何んと言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に。」
と、仰せ下され、しばらくしてから、
「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所。」
と、重ねてお言葉を下された。
【1】現代の言葉にする
明治9年6月18日の夜のこと。仲田儀三郎が、「教祖がよく『松は枯れても、案じなし』とおっしゃいますが、それがどこの松のことか、皆で話し合っています」と言いました。すると、増井りんが、「お祓いさんが降りた松は枯れると言います。うちの屋敷の松にお祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまった。だからうちの家はもうだめだ、潰れてしまうと、周りの人が噂しています」と、人々の話をそのまま伝えました。
そこで仲田が、すぐに教祖にこの話をうかがうと、教祖は次のようにおっしゃいました。
「さあ、わかったか、わかったか。今は何も見えないかもしれないけれど、これからを楽しみにしなさい。松が枯れても心配しなくてよい。人が何を言おうとも、それをいちいち気にしなくてもよいのです。」
そして、しばらくたってから、教祖はさらにこうおっしゃいました。
「屋敷の松が枯れても心配することはないよ。将来は楽しみな場所になるのだから。」
【2】ひとつずつ説明
人々は不安になることを口にする 「松が枯れると不吉だ」とか「家がつぶれる前触れだ」といった話は、昔も今も人の間でよくささやかれることです。不安なことがあると、つい悪いほうへ考えてしまうのが人間です。 教祖は未来を見ておられた それに対して教祖は、「今、目の前に何が起こっていても、将来を楽しみにしなさい」と励まされました。「松が枯れる」ことを悪いことと決めつけるのではなく、もっと大きな流れを信じるようにと教えてくださったのです。 「人の言葉に心を縛られなくてよい」という教え 人は何かと言いたがりますが、大事なのは「人がどう言うか」ではなく、「自分がどう心を持つか」です。他人の噂に心を動かされず、しっかりと信仰の道を歩むことが大切だという教えです。 「末はたのもし」=将来は必ず開けるという確信 たとえ今は「松が枯れた」ように見えても、それが終わりではありません。むしろその先に神様が用意してくださっている「たのもしき未来」があると、教祖ははっきりと示されています。
【3】まとめ
ある出来事を「悪い前兆」と受け取った人々の噂を前に、教祖は「松が枯れても心配いらない」「先を楽しみにしなさい」と優しく、力強くおっしゃいました。人はつい目先の出来事にとらわれて不安になりますが、信仰の道では「先を見る心」「人の声にまどわされない心」が大切です。教祖は、その姿勢を私たちに教えてくださっています。
【4】大切な教え
このお話で伝えられているのは、「目に見える出来事に一喜一憂せず、神様の用意してくださる未来を信じる心の持ち方」です。
天理教では、たとえ病気や災い、損失のように見えることがあっても、それは神様がよりよい道へ導こうとされている「ふし」として受けとめます。そして、「人の声」ではなく「神の声」に心を向けることが、陽気ぐらしへの第一歩です。
教祖の「末はたのもし」という言葉には、信仰をもって歩む人には、どんなに今が暗くても、必ず明るい未来があるという、揺るがぬ確信が込められています。