天理教教祖伝逸話編【四十三 それでよかろう】をAIで子供向けに説明


 明治八年九月二十七日(陰暦八月二十八日)、この日は、こかんの出直した日である。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと言うては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに駈せ参じた。

 その翌日、後仕舞の膳についた一同は、こかん生前の思い出を語り、教祖のお言葉を思い、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、今まで、神様を疑うていて申し訳なかった。」と、中には涙を流す者さえあった。

 その時、列席していたお屋敷に勤める先輩が、「あなた方も、一つ、講を結んで下さったら、どうですか。」と、言った。そこで、村人達は、「わし等も、村方で講を結ばして頂こうやないか。」と、相談がまとまった。

 その由を、教祖に申し上げると、教祖は、大層お喜び下された。

 そこで、講名を、何んと付けたらよかろう、という事になったが、農家の人々ばかりで、よい考えもない。そのうち、誰言うともなく、「天の神様の地元だから、天の元、天元講としては、どうだろう。」とのことに、一同、「それがよい。」という事になり、この旨を教祖に伺うと、

「それでよかろう。」

と、仰せられ、御自分の召しておられた赤衣の羽織を脱いで、

「これを、信心のめどにして、お祀りしなされ。」

と、お下げ下された。こうして、天元講が出来、その後は、誰が講元ということもなく、毎月、日を定めて、赤衣を持ち廻わって講勤めを始めたのである。

【1. 現代の言葉にする】

明治8年9月27日(旧暦8月28日)は、こかん様(教祖のご息女)が亡くなられた日です。庄屋敷村の人たちは、病気の間も何度も見舞いに訪れ、亡くなったと聞くとすぐに駆けつけ、葬儀の日には朝早くからお手伝いをしました。

次の日、みんなで「後仕舞い(あとしまい)」の食事を囲んでいるとき、こかん様の生前の思い出や教祖の言葉について話が始まりました。そして、

「本当に、今まで神様のことを疑ってしまって、申し訳なかった。」

と、涙を流す人まで出てきました。

そのとき、お屋敷に勤めていた先輩が言いました。

「あなたたちも、自分たちで“講(こう)”をつくったらどうですか?」

そこで村人たちは話し合って、

「私たちも村で“講”をつくろう!」

と決めました。

この話を教祖に伝えると、大変喜ばれて、「講の名前はどうしよう?」となったとき、ある人が言いました。

「ここは天の神様のふるさとだから、“天元講(てんげんこう)”がいいんじゃないか?」

みんなも「それがいい」と賛成し、教祖に伺うと、

「それでよかろう。」

とおっしゃって、ご自身が着ていた赤い羽織を脱いで、

「これを信心の目印にして、大切にお祀りしなさい。」

と、くださったのです。

こうして「天元講」ができあがり、それからは誰がリーダーということもなく、村人たちが順番にその赤い羽織を預かりながら、毎月集まって信心のつとめ(講勤め)を続けていきました。

【2. ひとつずつ説明】

① こかん様の出直し(しゅったいし)とは?

天理教では、亡くなることを「出直し」と言います。こかん様が天に帰るように亡くなられた日を、村人たちは深く受けとめました。

② 村人たちの変化

こかん様の死を通して、村人たちは「神様を疑っていた自分たちが間違っていた」と心から反省しました。この気づきが、信心の始まりになります。

③ 講(こう)とは?

“講”とは、信心の仲間でつくる集まりのことです。みんなで集まり、神様にお祈りし、助け合って生きることを大切にするグループです。

④ 教祖の喜びと赤衣の意味

教祖は講をつくることをとても喜ばれ、ご自身の赤い羽織を「信仰のしるし」として授けられました。これは「神様の心を目に見える形で受け取った」というとても尊い行いです。

⑤ 天元講のはじまり

リーダーを決めず、毎月、日を決めて赤衣を持ちまわりながら集まるという形で、天元講が始まりました。信心の実践を続ける美しい習わしです。

【3. まとめ】

このお話は、「亡くなった方を通じて、信仰の心に目覚める」こと、そして「自分たちで力を合わせて、信心を形にしていく大切さ」を教えてくれています。

神様や教祖の教えを「自分たちのこと」として受けとめた村人たちは、「講」という信仰の場を自分たちでつくり出しました。

形だけでなく、心を込めて続ける信心の姿が、「天元講」という名前と、赤衣という目に見えるしるしによって、今に伝わっています。

【4. 大切な教え】

出直しは悲しみだけでなく、目覚めのきっかけ  大切な人の出直し(死)を通して、人は心を新たにし、神様と向き合うチャンスを得ます。 信じる心に目覚めることが第一歩  「疑っていた自分に気づき、謝る心」が、信心の始まりです。 信仰はみんなで続けるもの  一人ではなく、仲間とともに集まり、神様に向かうことで信心は深まり、続いていきます。 神様のしるしは目に見える形でもらえることがある  赤衣のように、目に見える形で「信じる心の証し」が与えられることがあります。それを大切に守ることが、信心を守ることでもあります。